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【第0章第18話】実は高校時代から就職に対しては後ろめたい性格していた


台湾修学旅行での刺激的な体験を胸に、俺の高校生活は卒業へと加速していった。3年生となり、就職を目標とするこの高校では、いよいよ就職活動が本格化していく。周囲の友人たちが、真剣な眼差しで企業説明会に参加し、面接練習に励む中で、俺の心には、ある後ろめたい感情が常に付きまとっていた。それは、Youtuberになりたいという強い願望と、親や社会が求める「当たり前」との間に生じる、小さな、しかし確かなズレだった。そのズレは、次第に俺の心に重くのしかかるようになる。


目次

職場実習の記憶:興味の対象と、現実の壁

少し話を遡るが、俺が通っていた高校では、生徒に何度か職場実習を経験する機会が与えられていた。これは、将来の進路を考える上で非常に重要な経験となる。座学だけでは分からない、実際の職場の空気や仕事内容を肌で感じられる貴重な機会だ。

1年生の時に行ったのは牧場だった。正直なところ、最初は「牧場?なんだか重労働だな」という印象が強く、あまり興味はなかった。泥だらけになり、力仕事も多いだろうと漠然と考えていたのだ。

しかし、実際にやってみると、その予想は良い意味で裏切られた。牛舎の清掃、餌やり、乳搾り。どれも体力を使う作業ではあったが、動物たちと触れ合う時間は、想像以上に楽しいものだった。

特に、温かい牛乳が搾りたてで出てくる感触は、今でも鮮明に覚えている。牛たちの大きな瞳を見ていると、心が和んだ。

「けど生物って管理するのは大変だなとつくづく思った。」

生き物を扱う仕事の責任の重さを、この時痛感した。彼らの健康は、俺たちの手にかかっている。病気にならないよう、健康に育て、毎日決まった時間に餌をやり、清潔な環境を保つ。

簡単なことではない。だからこそ、牧場の方々への感謝の念が湧いてきた。彼らの日々の努力があってこそ、食卓においしい牛乳が届けられているのだと。

「いつもおいしい牛乳提供ありがとう。」

そして、ふと頭をよぎったのは、小学校や中学校の給食で飲んでいた牛乳のことだ。もしかすると、あの時俺が絞った牛乳は、ここで撮れたものを使っているかなと、妙な感慨に浸った。牧場での経験は、食のありがたさや、命を育むことの尊さを教えてくれた、貴重な体験だった。

それは、俺の中に眠っていた、慈しむような感情を呼び覚ました。

2年生の時は、たしか工場だったか?具体的な業種は忘れてしまったが、精密機械を組み立てるような、ライン作業の工場だった気がする。

この時の実習では、何だろうな…「お姉さんが優しい」という印象も強かったが、もう1つ気になったのは、俺は工場勤務はちょっと合わなさそうだなと思ったことだ。

というのも、俺は生まれつき鼻が悪い日が多く、アレルギー性鼻炎持ちで、ハウスダストや花粉に敏感だった。

工場内は、製品の粉塵や、油の匂い、あるいは薬品の匂いが充満していることも少なくない。

そういった環境は、俺の鼻にはかなりの負担だった。常に鼻がムズムズし、くしゃみが止まらない。集中力も散漫になる。衛生面に対する細かな配慮が求められる職場だと、常に鼻の調子が悪くて集中できないかもしれない。

決まった手順を正確にこなすことよりも、もっと自由に発想し、新しいものを生み出すことに関心があったのだ。

まるで、自分の思考が型にはめられてしまうような、息苦しさを感じていた。


3年生の就職活動:ホワイトカラーへの挑戦と、見えない壁

そして、3年生になり、就職活動が本格化する中で、俺はホワイトカラーとなる大手事務系の企業に2社ほど職場実習に行った。

俺は、これまで体力をかなり使う農業コースに所属していた

毎日、土に触れ、作物を育て、時には重いものを運ぶ。肉体労働が中心の生活だった。そんな俺が、知識労働となる大手の事務作業へ向かうというのは、まさに畑違いの挑戦だった。

この頃になると、俺の心の中には、Youtuberへの夢がより明確な形として存在していた。しかし、それはまだ、親や社会に堂々と語れるようなものではなかった。心の奥底に秘めた、誰にも言えない秘密のように、その夢は存在していた。

「これはね…当時は頑張ったな。」

1社目の事務系の職場は、意外と楽だった印象がある。

比較的ゆったりとした雰囲気で、与えられた業務もすぐにこなせた。農業コースで培った、地道にコツコツと作業する忍耐力は、事務作業にも活かされた。

だが、2社目に行った職場、ここが俺が最終的に就職することになる会社だったのだが、ここは正直しんどい思いをしたな…。

具体的な業務内容はここでは伏せるが、職場実習の段階から、精神的な負担を感じる場面が多かった。

まるで、見えないプレッシャーが常に俺の肩にのしかかっているような感覚だった。

農業で汗を流す肉体的な疲れとは全く違う、精神的な疲労感がそこにはあった。それでも、持ち前のポジティブ思考と、なんとかこの状況を乗り越えたいという気持ちで、必死に食らいついた。この辛い経験を乗り越えれば、きっと何か得られるはずだと、自分を鼓舞したのだ。

そして、見事合格して入社することができた

合格通知を手にした時の安堵感は、今でも鮮明に覚えている。それは、まるで重い荷物を下ろしたような、心の底からの解放感だった。

実際に先生も、俺がこの大きな企業に行く際、「こんなに書類を出していくことになるの初めてだ」と言われたほどで、その枚数の明確性は覚えてないが、15枚ぐらいはかかされた記憶がある。

履歴書、職務経歴書、小論文、適性検査の解答用紙、そして何枚もの誓約書や個人情報同意書。それらの書類を埋める作業は、まるで小さな山を築くようだった。

手書きでびっしりと文字を埋め、何度も書き直し、神経をすり減らした。特に、慣れない敬語やビジネス文書の作成には苦労した。農業高校の生徒がこれほど多くの書類を書かされるのは異例のことだったのだろう。

それだけ多くの書類を提出しなければならないほど、競争率が高かったのだ。

それでも合格のためには、乗り越えなければならない壁だった。


就職の理由:親世代とのギャップと、自分なりの戦略

でも少し待ってほしい。なんでYoutuberになろうという夢を持ちながら、就職するのかって?

…まあ悪く言えば、親に言われるがままいったからだ。

それは、決して誇れる理由ではなかった。自分の本心を隠し、親の期待に応えようとする自分に、どこか情けなさを感じていた。自分の夢を優先できない、自分の弱さがそこにはあった。

というのも、俺と親世代とでは、まず働き方の「当たり前」という時代が違うのだ。

親世代の人たちは、バブル崩壊後の「失われた10年」を経験し、安定した大企業に就職し、定年まで勤め上げることが「当たり前」という固定概念が非常に強い。

終身雇用が美徳とされ、会社に所属していれば安泰、という考え方が根強く残っている。

彼らにとって、Youtuberなどという職業は、理解の範疇を超えた、不安定で、とても「仕事」とは呼べないものだったに違いない。親の目には、俺の夢は無謀で、危険なものと映っていたことだろう。

彼らの心配する気持ちも理解できたが、同時に、自分の可能性を否定されるような息苦しさも感じていた。

一方で、俺の世代には、そんな縛りはなく、むしろ親世代の働き方に対してちょっと違和感がある感じだった。

インターネットの普及により、個人が情報発信し、多様な形で稼ぐ道があることを知っていた。

会社という組織に縛られず、自分の力で生きていく。そんな新しい働き方に、俺は強く惹かれていた。

だから、俺の場合は就職してのちに副業を始めたわけだが、親はおそらく、会社以外の稼ぎ方は知らないから、もちろん個人で稼ぐことは「違和感」で、自分ではやってこなかっただろう。

彼らにとっての「仕事」とは、会社に勤めて給料をもらうこと。

それ以外の選択肢は、不安定でリスクが高いものと映っていたはずだ。その考え方のギャップが、俺と親との間に、目には見えない深い溝を作っていた。理解し合えないもどかしさが、常に俺の胸にあった。

まあつまりはこうだ。当時の俺は、「とりあえずつなぎでやって稼いで、ある程度大きくなったら会社を辞めよう」という、半ば逃げのような、しかし自分なりの綿密な計画を立てていた。

会社という安定した基盤で、まずは社会経験を積み、資金を蓄える。そして、Youtuberとして活動する準備が整ったら、本格的に独立する。そんな、現実的な戦略を立てていたのだ。

当時の俺は、今の俺と違い、ポジティブ思考が強く、インフレな傾向だった。

将来の可能性を無限に信じ、どんな困難も乗り越えられると楽天的に考えていた。まだ世の中の厳しさを本当の意味で理解していなかったのかもしれない。

その楽観性が、ある意味では俺を突き動かす原動力でもあった。

一方で、親や周囲の意見に逆らってまで、自分の主張を強く押し通すことができない、主張が弱かったという欠点も目立った。

自分の夢を堂々と語る勇気がなかった。だからこそ、まずは「当たり前」のレールに乗ることを選択したのだ。それは、自分を押し殺すような選択でもあった。

まあようするに、就職は当時から興味がないということだ。

心の中では、常に「こんなところで終わるはずがない」という、抗いのような感情が渦巻いていた。それは、社会の大きな流れに逆らう小さな抵抗だった。

そして、最終的に就職した会社には、職場実習を2周ぐらいしたうち、なんとか合格することができた。

この会社は、実は特例子会社という性質も持っていた。

特例子会社とは、障害者雇用促進法に基づいて、企業が障害者の雇用を目的として設立した子会社のことだ。そのため、通常の企業とは異なる採用基準や、働き方が存在する。

特例子会社というわけもあり、競争が激しかった

大企業ではなかなか就職が難しいとされる状況の中でも、特例子会社は障害を持つ人々にとって重要な選択肢となるため、多くの希望者が集まる。その中で合格できたことは、当時の俺にとっては大きな自信となった。

それは、自分の能力が社会で認められた証拠のように思えた。同時に、これで親も安心してくれるだろうという、安堵感も胸をよぎった。

しかし、この特例子会社との出会いは、まさかのその後の数年後にあんな展開になるとは、当時の俺には誰も想像できなかっただろう。

また就職はゴールではなく、新たな試練の始まりに過ぎなかったのだ。

だがその展開は、まるで今の日本経済のようなデフレ思考、ネガティブ、保守へと、会社の雰囲気、そして俺自身の心までもが大きく変わっていくとは、あの頃の俺には全く想像もつかなかった。

希望に満ちていた未来が、徐々に暗転していく予兆だったのかもしれない。この会社で働く経験が俺の核となる価値観を根本から揺るがすことになるのだ。

だが、それはまだ、誰も知らない、暗い未来の話である。

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