2015年4月、俺は高校2年生になった。1年生の頃は、まだどこか受動的で、与えられた環境の中で「真面目にやれば良い」と考えていた。
通学電車の中での周囲のざわめきや、耳に入ってくる汚い言葉遣いにいちいち苛立ちを感じ、早く一人になりたいと願う神経質な部分が強かった。
しかし、この2年生の1年間は、俺にとってまさに改革レベルの転換期となる。
これまで培ってきた価値観が揺さぶられ、新たな自分が目覚め始める、そんな予感に満ちていた。それはまるで、長らく閉ざされていた俺の心の扉が、ゆっくりと、だが確実に開き始めるような感覚だった。
1年生の頃から、部活動やクラスメイトとの会話を通して、様々な情報が嫌でも耳に入ってくるようになった。特に、それまで俺が「気持ち悪い」とさえ感じて避けてきた「萌え系」と呼ばれるジャンルの話が、あちこちで聞こえてくる。Yくんとの交流も、俺の心を少しずつ、しかし確実に開かせ始めていた。
彼の話す、鉄道の背景にある「物語」への着目点は、俺の「男子版」の合理的な鉄道趣味とは異なる、もっと感情的な部分に響くものがあったのだ。
その積み重ねが、俺の中に新たな種を蒔いていたのかもしれない。それは、今まで俺が蓋をしてきた「感情」や「感覚」といった、言語化しづらい領域への興味の芽生えだった。
魔法少女との出会いと、覆された偏見の壁
そして、2年生になった5月、俺はついに、ある行動に出た。それは、それまでの俺からは想像もつかないような、積極的な行動だった。
ある日の放課後、いつものようにPCで鉄道の情報を調べていた俺は、偶然、インターネットの広告でとある魔法少女アニメのバナーを目にした。
可愛らしいキャラクターたちが描かれていたが、その下に添えられたキャッチコピーには、どこか不穏な響きがあった。「これは…もしかして、ただのアニメじゃないのか?」直感が俺にそう告げた。
数日後、自宅の近くにあるDVDショップの前を通りかかったとき、そのアニメのDVDが目立つ場所に陳列されているのを見つけた。
パッケージには、インターネットで見たキャラクターたちが描かれていた。普段なら見向きもしないようなジャンルだったが、インターネットで目にしたバナーの言葉が頭をよぎり、俺は吸い寄せられるように店内に入った。
「ちょっと、みていこうかな…」
心の中で、小さな声がそう囁いた。これまでの俺の価値観と真逆の扉を開くことへの、期待と抵抗がない交ぜになった感情だった。レンタルカウンターでDVDを借りる指は、どこか震えていた。
俺がそれまでに見てきたアニメといえば、『某パン』(国民的アニメとして愛される、あのパン職人の物語)、『某ロボット』(ロボットたちが変形合体して戦う、男の子の心を掴む作品)、『某幼稚園』(独特のユーモアと社会風刺が効いた、あの園児の日常を描く作品)といった、いわゆる「子供向け」や「ファミリー向け」のものがほとんどだった。
小学時代から中学時代にかけて、アニメを見る機会はめっきり減っていたし、すっかり「アニメ=子供が見るもの」という認識が定着していた。アニメは、現実から目を背けるための、薄っぺらい幻想だと思っていたのだ。
だからこそ、その魔法少女アニメを見た時の衝撃は、俺にとって計り知れないほど大きかった。
「…なんだ、これ…」
画面に釘付けになった俺は、思わず声を漏らした。
てっきり可愛いキャラクターたちが、魔法で悪者を倒してハッピーエンド、というような甘い物語だと思っていたのに、そこには予想をはるかに裏切るグロテスクな描写、登場人物たちの闇深い葛藤、そして容赦ないシリアスな展開が待ち受けていたのだ。純粋な願いが残酷な運命へと転じていく様、絶望と希望が入り混じるキャラクターたちの心理描写は、俺のそれまでのアニメに対する認識を粉々に打ち砕いた。可愛らしい絵柄の裏に隠された、人間の本質を抉るようなストーリー。それは、俺が今まで見てきたどんな物語よりも、深く、そして生々しかった。
この時、俺は「アニメ」というエンターテイメントの奥深さ、そして多様性に初めて触れたのだ。
今となれば「へぇー、よくあるじゃん、そういうダークファンタジー系のアニメ」と思うかもしれないが、当時の俺にとっては、それはまさに価値観を揺るがすほどの衝撃だった。
アニメが、子供だましではない、大人の鑑賞に耐えうる、いや、むしろ大人だからこそ深く刺さるような、そんな表現力を持ちうることを知ったのだ。
それは、俺の中に眠っていた「女子版」、すなわち「クリエイター」としての感性が、まさに覚醒する瞬間だった。それまで鉄壁だった「萌え」に対する偏見の壁が、このアニメによってガラガラと崩れ落ちたのだ。
広がる趣味、そして社会人初期までのアニメ体験
その日を境に、俺の生活は大きく変わった。鉄道への情熱は変わらなかったが、暇な時間があれば、ひたすらにアニメを見るようになった。
ジャンルを問わず、話題になっている作品から、少しマイナーな作品まで、片っ端から漁るように見た。最初は「萌え系」への抵抗感も多少は残っていたが、一度その偏見を打ち破ってしまえば、あとは堰を切ったように、様々な世界観が俺の目に飛び込んできた。
男子版が嗜好する「機能美」や「合理性」とは異なり、女子版はキャラクターの感情、物語の構成、映像美、そして音楽といった、より感情的な要素に強く惹かれた。
アニメを見るたびに、俺の心は激しく揺さぶられ、時には感動のあまり涙を流すこともあった。それは、それまで俺が知らなかった感情の領域だった。登場人物たちの喜びや悲しみ、怒りや絶望。それらがまるで自分のことのように感じられ、物語の世界に深く没入していった。
登場人物たちの心情が、痛いほどに胸に突き刺さり、彼らの決断一つ一つに、俺自身も深く考えさせられた。アニメの世界は、俺にとって、現実とは異なるもう一つの「人生」を与えてくれた。
イラストを描く際も、アニメで見た構図や色彩、キャラクターの表情などが、自然と俺の表現に影響を与えるようになった。今まで描いていた鉄道車両の擬人化イラストにも、より感情豊かな表情や、躍動感のあるポーズを取り入れるようになったのだ。それは、俺のイラストに、新たな生命が吹き込まれた瞬間でもあった。
このアニメに夢中になる日々は、高校時代から始まり、なんと社会人初期まで続いた。
それまでゲームがメインだった俺の余暇は、完全にアニメ鑑賞に取って代わられたと言っても過言ではない。テレビだけでなく、動画配信サービスも積極的に利用し、見逃していた過去の名作も貪るように見た。
夜遅くまでアニメを見ては、翌日眠い目を擦りながら通学することもしばしばだった。友人との会話も、鉄道の話題からアニメの感想へとシフトしていった。
アニメを通じて、俺は様々な世界を知り、多くの感情を経験し、そして何よりも「表現することの尊さ」を感じるようになっていった。
一つの物語が、これほどまでに人の心を動かす力を持つのか。
キャラクターの表情やセリフ、背景の細部に至るまで、作り手のこだわりが込められていることを知った時、俺の中に「自分もいつか、こんな風に誰かの心を動かすものを作ってみたい」という、漠然とした、しかし確かな欲求が芽生えたのだ。それは、クリエイターとしての俺の原点とも言える感情だった。
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