校門にたどり着いた私は、荒い息を整えようと立ち止まった。朝の新鮮な空気が肺を満たすたびに、昨日までの記憶の靄が少しずつ晴れていくような錯覚を覚える。しかし、それは錯覚に過ぎず、私の頭の中は依然として真っ白なままだった。
その時、目の前で鮮やかな水色の髪がふわりと揺れた。その横には、私よりも一回りも二回りも大きな、大柄な男性の姿が見える。二人は何か楽しそうに話しているようで、私の存在には気づいていないようだった。このままではぶつかる――そう思った時には、もう遅い。
「わわ!?」
私の焦りの声と、二人の驚きの声が重なった。しかし、彼らは驚くべきことに、私が転びそうになったその寸前、まるで示し合わせたかのように、瞬時に体をひねって私を避けたのだ。私は彼らが避けたことによってバランスを崩し、そのままアスファルトに尻餅をついてしまう。
(ええええ!?なんで避けられるのよ!?普通、ぶつかるか、せめて手を差し伸べてくれるとか…!)
予想外の反応と、無慈悲な回避行動に、心の中で叫んだ。情けないことに、私の手からは、いつの間にか握っていたらしい食パンが、アスファルトの上に無残にも落ちていた。
「いててて…」
尻餅をついた私を見て、大柄な男性がやれやれといった風に深々とため息をついた。
「おいおい…食パンくわえながら走るのは危ないだろ…。たく、日常アニメのあるあるな展開、映像はアニメだけの世界にしてほしいぜ、まったく」
男性は呆れたような声で言い放った。その言葉に、私はさらに混乱する。食パン?私、食パンなんか加えてたっけ?記憶がない上に、突拍子もない指摘に、私の思考は完全にフリーズした。
「おねえちゃん、大丈夫?」
男性の横にいた、水色の髪の少女が心配そうに声をかけてくれた。彼女の澄んだ瞳と、幼いながらも優しい声に、凍りついていた私の心が少しだけ温まる。
(えええええ!?どうしたらそんな発想になるのよ…しかも心配しているのは娘さんの方だし…!私はこけたのよ、怪我してるのよ!?)
心の中で激しくツッコミを入れつつ、私は何とか苦笑いを浮かべた。
「ああはは、大丈夫…いつもよくこけるから」
そう言って立ち上がると、男性は鋭い視線を私に向けた。まるで、私の嘘を見抜いているかのように。
(さっきのはどう見てもちょっとわざとだよな?)
彼の目がそう語っているように感じた。そして、水色の少女が私を見上げ、純粋な問いを投げかける。
「おねえちゃんはいつも登校するとき、あんな感じなの?」
「まあ、ちょっとね~!いつも家事をしていたら、朝のチャイムにギリギリになってしまいがちなんだ~」
私は適当にごまかした。記憶が曖昧な私は、とりあえずそれっぽい理由をでっち上げたのだ。しかし、男性は私の言葉を遮るように、さらなる爆弾を投下した。
「というか、さっき遅刻しそうに走っているみたいだけど、うちの学園は自由登校だぞ?」
「え…」
彼の言葉に、私は完全に固まった。そうか、この学校は…登校するのもサボるのも自由、定刻も遅刻も自由。そんな自由気ままな学園であることを、すっかり忘れていた。昨日の記憶がない私にとって、それはあまりにも衝撃的な事実だった。普通、学校といえば規則が厳しいものだ。それなのに、どうしてこんなに緩いのに偏差値は悪くないんだろう?まるで謎だらけの学校だ。
(ここに来る前の習慣がクセになっていたよん…)
そう思うと、恥ずかしさで顔が熱くなり、涙目になってしまう。ああ、もう穴があったら入りたい。すると男性は、私の気持ちなどお構いなしに、さらに追い打ちをかける。
「まあそんなことよりかは…今回の一番の犠牲は、地面に落ちた食パンだよな…かわいそうに、こんなところでご臨終とは」
(私より食パン心配してどうするねん!私を心配しなさいよ!というかこの人、さっきから私のこと馬鹿にしてない!?失礼すぎるわ!)
ぷくーっと頬を膨らませ、不満げな表情になる。この男性は、一体何様のつもりなんだろう?私の心の声は、きっと彼には届いていないだろうが、もし届いたなら、彼も少しは反省するに違いない。…いや、しないか。
「とにかく、校門の前に落ちた食パンを後片付けするように!あともう、走る意味は習慣ついていると思うが意味ないからやるなよ。それから、もし怪我をしてるなら、きちんと保健室に行くんだぞ」
そう言い放つと、大人の男性は冷たい視線を残し、さっさと校内へと去っていった。最後の言葉は、一応の気遣いなのだろうか?しかし、その言い方には全く優しさが感じられなかった。
(むきー!なんなのよ!?さっきからイライラするような失言しやがって!奥さんを持って勝ち組なのにむかつくーー!!)
心の中でそう叫んでいると、先ほどの少女が私の袖をちょんちょんと引っ張った。彼女は、先ほどの男性とは対照的に、純粋な眼差しで私を見上げていた。
「あのねあのね!お姉ちゃん!タイタンおじさんはあんな感じで冷酷な態度だけど、本当は無茶するなよって言いたいみたいなんだよね」
少女は屈託のない笑顔で、私をフォローするように言った。タイタンおじさん?どうやら先ほどの男性の名前らしい。
「まあタイタンおじさんは元からきちくあんきというみたいだから、どうしても本心を抜くためにいつもあんな感じでズバズバと言ってしまいがちだけど」
そう言って、彼女は私に複数の絆創膏を差し出した。小さな手で差し出された絆創膏に、少しだけ心が和む。
「まあいうならば…」
少女の言葉を遮って、私は思わず口を開いた。
「あのね、あと…さっきの『きちくあんき』は正しくは『疑心暗鬼(ぎしんあんき)』ね。幼稚園生なのに、よく難しい四字熟語を知っているね」
私の言葉に、少女は目を丸くして反論した。
「すいれんは幼稚園児じゃなくて小学5年生の10歳です!!」
「ああ…ごめんね、ごめん!ついつい水色の服と黄色い帽子を被っていたからついつい…」
思わず謝ると、少女はふぅ、と大人びたため息をついた。
「やれやれ、私を見た第一印象は『幼稚園児』…でもいつかタイタンおじさんのように大きくなって見せる!」
(そりゃああの見た目と元気そうなのを見たらなぁ…でも小学5年生でタイタンおじさんみたいになりたいって、目標が面白いわね…)
私は内心で納得しつつ、少女に礼を言った。
「それより話が遅れちゃったけど、すいれんちゃん、ケガの心配と絆創膏を提供してくれて本当にありがとうね!」
「なぬ!!なぜに自己紹介と展開をしてないのに私の名を知っているとは!お姉ちゃん、まさかエスパー!?」
少女は驚いたように目を大きく見開き、キラキラとした瞳で私を見つめた。
「さっきあなた、一人称で自分の名前を名乗り出たでしょうよ…」
私は呆れつつも、改めて自己紹介した。
「まあそれはともあれ、私はにゃもも。すいれんちゃんもTITAN学園の生徒の一人?」
「いかにもすみにも!この元気な水色のジャージが、その元気な一人前の証拠ー!」
彼女は元気いっぱいに、くるりと一回転して見せた。そのジャージは、私のピンクのジャージと同じように、学校指定のものなのだろう。
「何を言っているかは理解不能だけど、ようは同じ学園仲間ね」
私は苦笑しながら、先ほどの男性について尋ねた。
「それで、すいれんちゃんの言っていた、タイタンさんというのは…お父さんなのかな?」
すいれんちゃんは、んんん…と唸るように首を傾げた。
「んんん…詳しく説明すると、アニメ1話分ぐらいのボリュームなりそうなんだよね」
「なにその複雑そうな関係性は…」
(まあなんかさっき『おじさん』と言っていたからもしかすると本当の親子じゃないのかしら?血縁関係じゃないのに、あんなに遠慮なく話すって、どんな関係性なのよ…)
私の好奇心がくすぐられる。しかし、その答えを聞く暇はなさそうだった。
「ああ!いけない!今日の1時間目はすいれんが好きな体育の授業だった!そのためにこの格好にしたんだった!じゃあね、にゃももちゃん!」
そう言って、すいれんちゃんは私の返事を待たずに、あっという間に校舎の中へ駆け去っていった。
(なんかめっちゃ癖の強い親子だったわね…でも、全然悪そうな感じじゃなくて、なんだか面白そうだわ)
にゃももはふと笑みをこぼし、改めて校舎を見上げた。校門で繰り広げられた一連の出来事は、私の記憶のない新しい生活の、最初の記憶として鮮やかに刻まれた。このTITAN学園での生活は、一体どんなことになるのだろう?漠然とした不安と、それ以上の期待が胸に広がっていた。
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